職人の町のショップギャラリー

幾度も火災に遭いながら、そのたびに
地域の人々の力によって再建されてきた、
真宗大谷派井波別院 瑞泉寺。

お寺の門前町として栄えているまちは
日本全国あちこちにありますが、
瑞泉寺と井波との関係とは?

お話を伺ったのは、平成15年から
この瑞泉寺にいらして今は輪番を
務めていらっしゃる、常本 哲生さん。

「宮大工の方たちが、一世一代の大仕事として
このお寺を建てたことが建物によく表れています」

境内に入って正面にある、ふたつの大きな建物。
明治12年に焼失したあと、
向かって右側の本堂は明治18年に
左側の太子堂は大正7年に
それぞれ建て直されました。

(写真提供:真宗大谷派 井波別院瑞泉寺)

再建時、もともとは宮大工だったけど
彫刻の腕がいいと見込まれ、のちに彫刻が
本業となった方たちも現れてきたそう。

こうした経緯もあり、瑞泉寺が井波彫刻の
発祥地ともいわれるようになりました。

「普通だったら見えないところにまでこだわっていて、
次の時代の人間に、その自分の仕事や技術を
『どうだ見たか』という気持ちもあったんじゃないかと。

そして受け継いだ次の時代の方たちも、
『じゃあ見てろよ』と維持管理をし、修理し、守っていく。
それが 100年200年と、続いてきたんじゃないかと思います」

ここにあるのは、未完成の思想。

「完成してしまったら、そこで終わり。
もう先がありません。
わざと完成させずに、途中のまま残しておく部分をつくるんです」

山門軒下の四方にほどこされた龍の彫刻に
この思想があらわれているといいます。

4匹の龍のうち、髯があるのは1匹だけで
あとの3匹にはありません。

あとの人が彫れるように。
未来に続くように。

お寺を護持する想いが、宮大工や彫刻師のみならず
まちのなかにもあると常本輪番は話します。

平成25年に、本堂の屋根を銅板から
ガルバリウム鋼板に葺き替えたとき。
銅板を1枚1枚はがしてみると
その裏には、当時寄付をしてくださった方の
お名前が墨で書かれていたそうです。

(写真提供:真宗大谷派 井波別院瑞泉寺)

「そのお名前を見て
『これ、誰々さんのひいおじいさんだね』という話が出たら
『ひいおじいさんが寄付をしたなら、ひ孫の私も寄付します』
と、つながったこともある。

ひいおじいさんがお名前を書いたのは、
ただ単に記念としてだったのかもしれません。
それでも、そうやってお寺というのはつながっていくんだなあと」

こうして瑞泉寺を支えるのは、井波だけではありません。

本堂の焼失直後に、仮に仏事を行う場所として建てられた仮御堂。
射水市新湊にある、放生津という地域の方々の
寄進によって建てられました。
本堂が再建されたあとも残っており
今は広間として使われることがあります。

さらに、太子堂の再建につかわれた材木の一部は、
利賀村からの献木。

「雪崩から集落を守る雪持林、
自分の地域の災害を防いでくれるその木を切ってまで
利賀村の方々は瑞泉寺に献木してくださったんです」

瑞泉寺がここまで大きな影響力を持ち、
多くの人の気持ちを集めた理由のひとつとして
常本輪番は、聖徳太子をうやまう、太子信仰を挙げました。

「浄土真宗、仏教に近しいけど、それよりももっと人間味あるなにか。
想いを寄せ、手を合わせる場所としてここがあり
太子伝会には北陸各地から、毎年たくさんの人が集まります」

太子伝会とは、毎年7月に太子堂で、聖徳太子の一生が
掛け軸に描かれた絵伝をもとに語られる、今も続く行事のこと。

「瑞泉寺が、人々が苦しいときに
心の支えになった時代が確かにあって。
わたしたちが苦しいときに支えになってくれたから、
お寺が大変なときにはお返ししましょう、という気持ちが
人々の心の中にあったからこそ、
こうして守られてきたんだと思います」

昭和期の太子伝会(写真提供:真宗大谷派 井波別院瑞泉寺)

時代が変わっていっているから、昔のようにはいかないことも多いと
前置きしつつも、こう続けます。

「両親、あるいはおじいさんおばあさんに手を引かれて
やってきた太子伝会の記憶が、当時子どもや孫だった世代に
今もまだ残ってるかもしれない。子どものころは、
なんのために手を合わせるのかよくわからないままに
手を合わせていたと思うんです。

でも、教えてくれた親や祖父母が亡くなっていたとしても、
手を合わせることによって思い浮かぶ姿があり、
手を合わせる動作の中のどこかに瑞泉寺がある。

自分のご先祖さまたちが大事にしていた
このお寺に対して、自分の代がまったく何もしないのは
ちょっと申し訳ないなと気持ちが起こると、
屋根の葺き替えのときのご寄付のような
話にもつながってくるのかもしれません」

確かにここは古いけど、新しいものに
変えてしまうのは違う、と常本輪番。

「古いなりにきちんと手を入れて、瑞泉寺が
また人々が集まるような場所にしていかなくてはと思ってます」

最後に、瑞泉寺と地域との関係を
落語『百年目』に出てくる仏法のお話で
栴檀の木の話に喩えて話してくださいました。

美しい栴檀の木の根本に、南縁草という草が生え
みっともないからとその草を刈ってしまったら
栴檀の木があっという間に枯れてしまったというお話です。

栴檀は、生えかわり、枯れた南縁草から養分を得る。
南縁草は、栴檀から落ちる露を受けて元気に育つ。
どちらか片方だけでも成り立たない。

瑞泉寺は地域の中で中心となる
檀那寺(だんなでら)とも呼ばれています。
そもそもその檀那と呼称されることは、
栴檀の檀(ダン)と南縁草(ナン)を取り
ダンナンが檀那となったことからきているとか。

「瑞泉寺と、地域との関係は
そういう持ちつ持たれつで成り立っているんでしょうね」

目まぐるしく変化するときのなかで
変わらず、ずっとある場所。

瑞泉寺、井波があり続けるための
南縁草の養分、あるいは栴檀の露とは、
一体なんでしょうか。

あとの世代に続くよう、その答えも
今はまだ完成はしないまま。

文:松倉奈弓
写真:大木賢
資料写真提供:真宗大谷派 井波別院瑞泉寺

Privacy Settings
We use cookies to enhance your experience while using our website. If you are using our Services via a browser you can restrict, block or remove cookies through your web browser settings. We also use content and scripts from third parties that may use tracking technologies. You can selectively provide your consent below to allow such third party embeds. For complete information about the cookies we use, data we collect and how we process them, please check our Privacy Policy
Youtube
Consent to display content from Youtube
Vimeo
Consent to display content from Vimeo
Google Maps
Consent to display content from Google
Spotify
Consent to display content from Spotify
Sound Cloud
Consent to display content from Sound